温故知新
レモン色のまち

昭和33年の諏訪中通り

水谷武生

(写真提供:辻写真館)

写真は昭和33年6月21日の諏訪中通り(現在のすずらん通り)の様子です。時刻は夕方。今の公園通りから東向きに撮ったものです。学校帰りの学生さんが目に付きます。駅西の工業高校の生徒さんでしょうか。 戦後しばらくの間、北京飯店のところに白揚書房がありました。昭和29年ごろ、白揚は1番街へ移転しました。北京飯店は入って右に厨房、左側が客席です。昭和32年の写真では、肉まんとかシュウマイのお持ち帰りができるようになっています。それにしてもずいぶん駐輪が目立ちますね。 その西隣が笹井屋でした。当時は大変しゃれたレストランで、入り口で永餅を売っており、奥にゆったりしたテーブルと椅子が並べてありました。少し改まった気分で入ったものです。お客さんと姉が笹井屋で待っているから来なさい、と呼ばれて餡蜜をいただいた記憶があります。 その後笹井屋は閉店。紳士服のヤマモトになりましたが、今はシャッターが閉じられたままです。

笹井屋の前がチェリー理容。当時は4〜5人のお姉さんが働いていて、なんとなくドキドキしたものです。店の奥から打ち水をした表の通りが明るく輝いていました。子供用のお馬さんの補助椅子が2〜3台用意してあり、私はよく散髪の途中で居眠りをしてしまい、気が付くと2人がかりで髪を切っていて、子供心に恥ずかしい思いをしたものです。散髪が終わるとおじさんは一通り仕上がり具合を見て、ちょっとはさみを入れると「ヨシッ」と大きな声で仕上がりを告げました。ここの木戸君は幼稚園からの友達で、店の奥には小さな座敷があり、そこには早くからテレビが置いてありました。テレビは店からも見えるようになっていて、月光仮面を木戸君とよく見せて頂いたものです。 通りの東、私の家の通りをへだてた処に高嶋易断の小さな小屋が立っていました。若松というおじさんは八卦見で、少々いかがわしい人だったと聞かされていましたが、そこは隣のよしみ、おじさんにはよく遊んでいただきました。若松さんには私より少し年上の息子さんが見えましたが、とても腕白であまりお付き合いしたことがありませんでした。ある日、お尻をくっつけあって離れなかった2匹の犬に、若松さんは勺の水をかけて一瞬のうちに放してしまったことを鮮明に覚えています。まるで魔法をかけたようでした。 若松さんの隣には櫛庄という化粧品屋さんがありました。後に櫛庄さんは1番街へ移転しています。今のハロースペースの場所です。櫛庄さんの親戚の女の子が遊びに来るとお誘いを受けました。二人はおばさんのご教授でこけしの絵をかきました。クレヨンしか使ったことのなかった私には絵の具が始めてで、違う色の重ね塗りのできることがとても新鮮でした。 この界隈はよく火災にあいました。戦後にわかに建てたバラックであった為か、漏電の原因が多かったようです。校内放送で知らされ、とんで帰った覚えがあります。野次馬の無責任な言葉を恨んだこともありました。火事見物は程ほどにして、焼け出された人の気持ちも汲まなければならないと子供心に思ったものです。
夕陽が畳に長い影をうつしています
貸し本屋の漫画を見ているうちに
すっかり眠ってしまいました。
嶋口屋さんのせこから
通勤帰りの人たちが出てくる
人の群れは家の塀沿いに諏訪駅へと急ぐ
靴音と共に北勢堂からウエスタン音楽が聞こえてくる
昭和33年6月21日土曜日の夕方、梅雨の晴れ間の一日が終わろうとしています。
畳のうえの長い影がゆっくりと動いていく