温故知新
レモン色のまち
映画館の思ひ出

水谷武生

(写真提供:辻写真館)
昭和30年代、まさに日本映画界は全盛の黄金時代でありました。 

うちの店の横には、ズラリ四日市中の映画看板が並んでいました。四日市東映、東宝の弥生館、大蔵映画のぼたん座、四日市日活、洋画の宝塚劇場、ターザンを上映していた三重劇、3本立ての四劇、たまにはエッチなロマン座、そして四日市駅が出来てから駅前に建てられた四日市シネマとグランドの看板が立ちました。
看板を立てさせてあげると、月に招待券2枚とビラ下券(割引券)が数枚いただけました。毎週土曜の夜は父親とタダ券で映画鑑賞の日です。日頃、嶋口屋で35円の志のだうどんしか食べさせていただけないのが、この日は50円の肉うどんが食べられます。明日は日曜日で休み。今夜は東映の「月光仮面・キングコングの逆襲」が見られます。嬉しい、楽しい、喜ばしい、学校なんかなければ良いのに。同じクラスの清水さんは僕を好きなのかしっかりいじめてくれます。まだいじめられて喜びを感じるまでには程遠い年頃の僕でした。

当時の映画は2本立てか3本立てで、入り口の看板でしっかり確認していったのに併映の一本が終わり、さて月光仮面の始まりと思いきや、変なおばさんが出てきて演歌を歌いだすのです。国定忠治の立ち回りをやってまた演歌です。今度は月光仮面の格好をしてパンパンと打ち合いをし、また歌です。とうとう9時30分になり、蛍の光が鳴り出しました。ひょっとするとこれから月光仮面の映画をするのではという僕の淡い望みも打ち砕かれ、無口な親父のあとをついて家路につきました。当時は、旅回り一座が映画館を借りて巡業することがありました。親父とロマン座へ行ったときのことです。劇場は、国鉄の踏み切りの向こうでした。歩いてよく行ったものです。30分はかかったでしょう。
昭和34年 1番街・南大通り交差点


現在の1番街・南大通り交差点
ロマン座は、アメリカ映画の怪獣物なんかをよくやっていました。放射能で大きくなった蜘蛛の映画が始まる前に、なんと外国のストリップ映画が始まったのです。早くからおませだった僕は、どうして良いかわからず、思わず着ていたチョッキを引っ張りあげて顔を覆いました。「こんな助平な映画は見られません。」と親父にメッセージを送りつつ、編んである毛糸の隙間からしっかり裸の女の人を鑑賞していました。僕もだんだん大きくなり、親と行けばタダで観れたのに招待券が要るようになりました。どうしたらタダでは入れるか。お袋はマジで大きな僕をねんねこでおぶって映画館の入り口を通過しようとしました。「ちょっと待ってください。その子は小学生と違いますか」その日から僕もタダ券が必要となりました。それでも券の無いときは背をかがめて入り口の通過に成功しました。


昭和32年 スワ劇前(1番街南大通りジャスコB館角)

スワ劇のあった一番街ジャスコB館角

当時映画は庶民の唯一の娯楽でした。館内は満席で、立ち見の人も多く、映画が終わるとタバコの吸殻を拾うおじさんがいました。売店のお菓子も楽しみでした。細いセロハンの袋に詰まったバターピーナッツや落下傘のおまけ入りのキャラメルなど、そこでしか買えないものもありました。上の写真は、当時の諏訪東映の前です。
今はジャスコのB館になっていますが、諏訪駅から白揚の本屋や大人のお店「あかもん」の前をとおって南へ路地を抜けると諏訪東映がありました。戦後にわかに建てた木造の店がひしめき合っていました。その通りを多くの人が行き来していたのです。
なんでもお店の前へ並べれば売れていった時代。ものに飢え、そのために必死で働いた、そんな時代でした。