温故知新
レモン色のまち
中央通りの風景                            水谷武生
写真提供;辻 俊文(辻写真館) 山路昭雄

 昭和42年6月。国道1号線と中央通り交差点を南に向かって見た写真です。
 左に交通監視塔が建っています。出来た当時はこの塔におまわりさんが立っていました。数年たって見上げると、塔の中には人形が飾られていました。
 中央通りもすっかり整備が済んで、西の四日市近鉄駅へ向かう三重交通のバスが列を作って右折していきます。
 さかのぼる2年前、昭和40年7月15日。1号線方面から西の近鉄駅を見たところ。正面が東海ストアのある近鉄四日市駅。
 電光掲示板が見えますね。その右並びが近鉄百貨店。手前に大きくオカダヤが建っています。オカダヤ屋上のミニカーに乗るのが楽しみで、せっせと通わせていただきました。
 楠の木は今からは想像も出来ないほど小さいですね。
 上の写真と同じ日の駅前噴水付近の光景です。駅の北側には近鉄百貨店が並んでいます。躍進と名づけられた青年の像は今も健在で、当時の発展する四日市を象徴するように立っています。現在の写真と比較すると、青年の像は東に移動しているようです。
 東海ストアと近鉄百貨店。オカダヤ、カワムラセンター、そしてスワ百貨店と四日市駅前商店街が最も充実期を向かえた頃でした。
 左は昭和33年7月20日、上は同年3月8日。新しい近鉄駅が出来て1年も経たない頃の駅から南東方向を見たところです。
 中央通り南に三重交通停留所があり、バスを降りて小雨降る中、駅へ向かう人で賑わっています。農協の建物が大きく見えていますが、左が農協前の写真。夏の夕日を浴びて、当時の風俗を垣間見ることが出来ます。ボンネットバスですね。
 この二枚は四日市商工会議所に長年勤めて見えた山路昭雄氏の写真をお借りしました。左は、中央通りが整備された昭和30年代後半とあります。
植えられたばかりの楠の木。噴水はまだ造られていません。駅の2階から通りを望んでいます。手前にロータリーが見えています。ロータリーを巡ってのんびりと走る車が、当時の繁栄を象徴していたのでしょうか。
 
 右は新しい駅が出来た、昭和32年頃の写真でしょう。 久保田町で三滝川から取り入れられた水は、農業用水の役割を果たして中央通りを抜け、下水となってあせち川へと合流していました。この川は今、駅西で見ることが出来ます。
 山路昭雄氏のホームページ「よっかいち写真の館」も覗いてみてください。
 昭和32年4月吉日、諏訪駅から移転した近鉄四日市駅が中央通り正面に完成しました。改札口の南に東海ストアの食品売り場。二階が物販と食堂がありました。大勢の人が押しかけて、中央通りの景観を楽しんでいます。改札口を入ると地下へ下りる通路があり、大阪、名古屋、内部八王寺方面へ上る階段が並んでいて、駅西にも小さな改札口があったと記憶しています。
 駅裏は当時広々とした田畑が広がり、右に天理教の教会、前に工業高等学校、ずっと左に鵜の森神社の木森が望めました。駅前の賑わいに比較して、西はまだ寂しい土地でした。
 この写真は改札口前を撮ったもの。左に切符売り場がありました。結婚式の帰りでしょうか、着物姿のご婦人が目に付きます。
 駅が出来る前、昭和30年5月中旬。農協前あたりから西を望む。左遠方に工業高校がえます。右に堀木菓子店。ここが今のミスードーナッツになります。
 子供が水溜りで遊んでいます。このとき以前、中央通りは広い空き地で、殿様バッタを取りに行きま
した。あらゆるところに、いろんな空き地があり、そこはすべて冒険心を満たす未開の地でした。
 昭和30年5月17日、整備が進む駅前を写真に残そうと、辻さんはカメラ片手に中央通りへ出かけました。
 旧道沿いから東を眺めます。四日市市役所の塔が見えます。昭和27年3月25日から1ヶ月間ここで講和記念全日本農機具大博覧会が開かれ80万人の人で賑わいました。その後、この広い空き地に中央通り(70米道路)が出来ていくのです。
 1号線の向こうには、既に楠の木が植わっていますね。女の子が北から南へと走り抜けます。鈴鹿おろしの吹く季節には、身を縮めて中央通りを横切り浜田小学校へ通いました。
 空襲ですっかり焼け野原になった市街地でしたが、この10年で力強く復興してきました。そしてこれからの10年、この中央通りは、駅周辺の発展と共に又大きく変わっていくことになるのです。                 間違い等ございましたら、ご指摘ください