温故知新

諏訪公園界隈 水谷武生
提供:辻 俊文(辻写真館)

 昭和32年5月13日。雨上がりの夕刻。勤め帰りの二人が通る。
諏訪公園南側、麻生医院前から3番街に向かって撮られた写真だ。公園を背に屋台がずらりと並ぶ。公園の北にも十数軒あったから、公園の周りは屋台だらけだった。戦後、女手ひとつで生活の糧に始める商売に、屋台は手っ取り早かった。公園近くの友達が「屋台の豚足はうまいぞ、安いし毛が生えとる」といって勧めてくれたが、気持ち悪くて食べずじまいだった。
四日市の街の構成に、飲み屋が大きな力となっていた。
 左上、公園の猿の檻が見える。2〜3匹のニホンザルがいて、えさをやるなと言うのに、みんながえさを与えていた。虐待も良いとこだった。時々脱走しては麻酔銃で戻されていた。祭りになると檻の前には香具師が並んでお猿さんは、数日間みんなから忘れられていた。
 開店前の準備の様子と営業中の風景。左が2月、右が11月だから夏はともかくビニールシートのない当時としては、冬場は寒風の中での商売だった。
おばさん方のたくましさを痛感せざるを得ない。
 私、ご幼少の頃、一度だけ屋台に入ったことがある。どこかのおじさんと行ったのか、友達と遊びに覗いたのか。狭い空間は不思議な世界で、おばさんが「何か食べる?」と笑っていた記憶がある。そういえば、我々ガキどもは何処へでも訪問した。身の危険も顧みず、好奇心の塊で大人たちの仕事振りを観察した。子供であふれていた当時の町は、ガキどもに寛容だった。
 二番街。すずらん通りを西へ、駅前の道に出るところ。昭和33年7月14日。
 この年の4月、売春禁止法が国会を通った。この地域一帯を港楽園と呼ばれ諏訪公園西の春告園と共に四日市の二大赤線地帯だった。
 貧しい東北出のご婦人が多かったと聞くが、それにしてもお姉さん方のこの明るい表情はどうだ。楽しそうに子供達の遊び相手をしている。
 売春禁止法は公認の売春施設、全国で39000軒と従業婦2万人が姿を消すことになった。四日市でも多くの失業者を出したことだろう。
 昭和32年。左が港楽園、今の居酒屋お半の前付近の写真。この通りは小学生の頃よく塾に通った道だ。竜宮城の様な建物があったりして、なんとなく甘いような複雑なにおいが立ち込めていた。途中でお菓子を買って塾に入る。先生の目を盗んではプロレスごっこに興じる。最後に、優しい先生から菓子を食うなとたしなめられた。 ある日、先生が結婚するということを聞かされた。どんな嫁さんが来るんやろと皆で楽しみにしていたら、ちょくちょくお手伝いに来ていたお姉さんだった。「先生、出来とったんや」ということで落ち着いた。もっと色っぽい女性を想像していたが興ざめだった。
 左が諏訪公園西の春告園。今の「まっさん」あたりか。1階ではお兄さん方がばくちのちんちろりんなどをしていて、そこで交渉して2階の小部屋へ上がる。「夜のネオンが輝きだすと、居ても立ってもおられんだわ」おじさんが懐かしそうに語る。ご幼少の僕としては想像外の世界だった。
 昭和33年6月。公園西から北向きに見た様子。春告園の入り口だ。
 開店の準備が出来て、来客を待つバーの従業員。寿屋チェーン店の看板が見える。アンクルトリスのカットが載った小さな冊子が家にあって、中の折り込み写真を盗み見するのが楽しみだった。ヌード写真は、公園西側からかもし出される複雑なにおいと交錯して、めくるめく官能の世界を展開した。今思うと、まったくたいした写真ではなかった。
 この年、石原裕次郎の日活映画「嵐を呼ぶ男」「陽のあたる坂道」「風速四十米」が大ヒット。裕次郎のイカス姿に若者はあこがれた。
 自転車の向こうに「麗人急募」の張り紙が見える。麗人とは古い表現だ。
近年めっきり見かけなくなった。街を歩いていても見ないし、もちろん家中を見渡しても居ない。
(左が当時、右のカラー写真が現在です)