温故知新

考察:四日市諏訪駅跡地 水谷武生
写真提供 辻俊文氏(辻写真館)・山路昭雄氏

 昭和32年(1957)4月 諏訪駅が近鉄百貨店へと移転した。それまで1番街の中央(現在のパチンコホームラン)にあった諏訪駅は解体され広い空き地が残された。
 これは諏訪駅の入り口、西に向かって撮られた貴重な絵だ(山路昭雄氏所有)。雨の日の駅前。年代は不詳。電車が止まっている。この電車は西、名古屋へ向かう近鉄線と異なり、左方向、八王子へとカーブしていた。左に建つのが諏訪百貨店。諏訪マーケットと呼ばれていた。

 昭和30年(1955)6月8日。諏訪駅の入り口付近から逆方向、東向きに取られた写真。左にJR(国鉄四日市駅)へ向かって延びる東西方向の線路があり、右へ行くと諏訪劇場へ出た。看板をくぐって奥に三泗百貨店(現在のスーパーサンシ)がある。諏訪劇場は25日から菅原謙二の「東京暴力団」と「目白三平」、弥生館では志村喬の「男ありて」と有島一郎と清川虹子か?の「奥様多忙」が25日から31日まで上映の予定だ。当時は1週間で映画が変わった。しかも2本立て。駅から降りるといやでも映画の看板が目に付く。

 昭和33年(1958)7月21日 諏訪駅前(南側)にあった諏訪百貨店。映画の看板の位置はそのままだから、上の写真から少し後ろに下がってとられたもの。えびす餅の看板。店頭に冷やしたジュース。右隣が霜書店。前掛けをして竹のかごを持つおにいちゃんは出前の帰りか。
 この頃には諏訪駅が解体されていた。この時、諏訪劇場では片岡知恵蔵の「新撰組」、弥生館では「駅前旅館」が上映されている。娯楽の少なかった市民はせっせと映画館へ通った。

 同じ日、7月21日に取られた諏訪百貨店。もう少し西に下がって撮られたもの。
 通りの位置関係がよく分かる。右に建つ諏訪百貨店は撤去された八王子線に沿って右方向へ弧を描いて建てられていた。線路が取り外され、線路道は1番街通りへと整備されていく。映画の看板を左へ、踏み切り跡を渡って東へ折れると草野洋服店前になる。ここの線路沿いによく「ぱっかんや」が来ていた。私は、大きな爆発音に度肝を抜かれた、周囲を見たら誰もいなかった。

 この写真も同じ日に撮られている。諏訪百貨店を北の方角から撮られたもの。この店の並びは右方向、日永八王子線に沿ってゆっくりと南へカーブしている。
 炭俵の前で一休みするおじいさん。黄な粉の木箱が積まれている。諏訪百貨店の隣がらくだ洋服店、カメラの光映堂、やきそばの柏屋、前には柏屋の氷の看板。アイスクリーム10円・20円とある。柏屋の路地を入ると辻写真館へ出た。駅跡の広い三角空き地はゴミが積まれて雑然としている。

 昭和33年7月18日 上の写真の右側を撮ったもの。左端が辻写真館へ繋がる路地。右にスワ理容・左に稲葉屋料理旅館があった。奥に諏訪劇場の大きな屋根が見える。まるきやパチンコの入り口と看板を上げた建物がある。。日永八王子線がこの建物沿いに奥へ延びていた。右に建つ白いビルはひかりや洋装店。

 昭和31年8月30日 2年ほどさかのぼるが、江田町が上の写真の場所で催事を行った。まるきやパチンコが営業中だ。歌のびっくり箱・クイズ合戦と看板が出ている。諏訪駅が無くなった直後だろうか。すごい人出だ。夜であるにもかかわらずこれだけの人が集まったのだ。
 舞台後ろがひかりやになる。この年にはもう、ひかりや洋装店は建っていただろうか?かぶりつきで子供たちが集っている。キャラメルでももらっているのか。

 昭和33年2月23日 諏訪百貨店マルモ乾物店前。甘酒の素の看板が揚っている。
 子供をおぶったお客さんと話をする乾物店のお兄ちゃん。「あきちゃんなあ、先月、嫁に行ったで」「へえ、もうそんな年かいな。早いもんやなあ」「ええアジの干物入っとるで。買うてって」

 昭和33年12月21日 諏訪百貨店内部の様子。
戦後にわかに建てたバラックの集合体で、通路はコの字型になっていた。乾物屋・菓子屋・八百屋・化粧品屋・文房具屋・本屋・下駄屋、あらゆるお店が詰まっており。常設市場というイメージだったのではないだろうか。右が文房具屋、通路左は化粧品屋。

 昭和33年7月21日撮影 諏訪百貨店内部にあった中村履物屋。狭いスペースに下駄やぞうりが所狭しと並んでいる。突っかけは右下に少し置いているだけ。鼻緒がたくさん下がっている。切れると修理してもらう。底から紐で鼻緒を引っ張り、金具を打って出来上がりだ。下駄の歯は、履く人の癖によって斜めに減っていった。ちびた下駄を履いた私は、当時斜めに走っていた。
 昭和35年、諏訪百貨店は新しいビル建設に踏み出します。やがて四日市1番街は高度成長期を迎えることになるのです。
あくまでも当時の写真からの考察です。勘違いが多くあると思います。是非ご指摘ください。