温故知新
諏訪新道物語 水谷武生

こんにちわ!ご無沙汰していました。ようこそページを開いていただきました。ここしばらくお休みしていましたので、見ていただいた事に感謝しています。
 昭和30年ころ。私の店から前の路地を抜けると、すぐ1号線に出ます。そこには電気屋さんがあって、テレビの前は見物の人でいっぱいでした。三国志の操り人形劇のようなものをしていたと記憶しています。プロレスでは力道山が絶頂期でした。1号線から東へ、国道を渡ります。当時はまだ信号がついてなかったと記憶していますが、走り去る車を縫うように国道を横断できたころがあったんです。そこから東へ新道通りが通っていました。
 新道通りは戦後四日市一番の商店街でした。オカダヤ、今のジャスコ、岡本総本店、川口屋、中村履物店、いちょうや、うまいやなどそうそうたる店舗が軒を並べていました。

現在の1号線商店街

オカダヤは戦後、北町からこの場所へ移り、近鉄四日市駅が出来るまでの10年ほど、ここで店を開いていました。母や姉について、よく下着などを買いに出かけたものです。衣料品スーパーのはしりであり、当時としては新しい手法の大型店舗でした。その後オカダヤ事務所となり、現在ではマンションが建っています。ジャスコはここから大きく店舗展開を繰り広げ、今では押しも押されもしない世界のジャスコとなっていくのです。
 家具の岡本総本店と、東に隣接して建つ着物の川口屋と水谷結納店は平成元年に火災に見舞われ、今では1階に川まん(旧川口屋)が店を構えるマンションとなっています。空襲ですっかり焼け野原になった街で、まず家具を求めるとなると岡本総本店や西にある宮崎家具をのぞきました。
 その東にうまいやがありました。喫茶兼レストランのようなもので、ここのぜんざいには、なんと白い砂糖が振りかけてあったのです。サッカリンを使ったり、サトウキビをかじったことのあるような当時の人には、少しでも甘いものがご馳走だったのです。「ここのねずみは猫のように大きい」最近こんな話を聞きました。一瞬何のことか分からなかったのですが、うまいやでは食料が豊富で、残飯で屋根裏のねずみも良く太っていたのでしょう。祭りの夜見たネオン輝く2階建ての店舗は今でも脳裏に焼きついています。

昭和42年10月の1号線商店街丸茂前

 広告塔をご存知ですか?広告塔は昭和30年ころ新道通りの数箇所に建っていました。タケコシ鞄店の前、車道側にあった記憶があります。3mほどの高さの円筒形をしていました。胴の部分に広告が貼ってあり、頭からスピーカーで音楽や宣伝が流されていたのです。そのころ読んだ漫画に「なぞの広告塔」というのがありました。悪漢のサンドイッチマンが地下のアジトへの連絡口に広告塔を使っているというお話です。前を通るたびに、それとなく周りを見ましたら、小さな扉がついて鍵がかかっていました。幼心に大変な発見をした記憶があります。数年後、広告塔は撤去されましたが地下へ通じる階段の跡はありませんでした。
1号線からスワパーキングを望む

 もうひとつ、1号線と新道通りの交差する角に、三重交通の本社が建っていました。バスの出発点で切符売り場やベンチが並べてありました。今のスワセントラルパーキングのところです。当時の写真を見ると、乗船券とあります。四日市港から出る船の切符も扱っていたのでしょう。近鉄四日市駅が出来て、駅の南へバス停が移るまで多くの人で混雑していました。
 終戦後、東西に広い道が整備され、両側に歩道のついた新道通りは、諏訪駅と国鉄(現在のJR)四日市駅間の線路に並行して通る、四日市一の商店街通りだったのです。今でも四日市まつりやエキサイトバザールなどの催事場所として多くの人で賑わいます。
 緑の木々が整備されマンションの建つ近代的な街になりましたが、老舗の多く残る新道通りは、外商を取り入れるなど、暖簾を守る経営努力が続けられています。
昭和33年1号線諏訪新道交差点付近

オマケ
 百五銀行四日市支店前跡に残る「なぞの広告塔」の跡????