温故知新
レモン色のまち
四日市の祭り

水谷武生

(写真提供:辻写真館)
久しぶりに、ということでご当地諏訪前の話でも
昭和30年代当時は、8月1〜3日が「港まつり」、9月25〜27日が「四日市まつり」でした。


A 昭和31年7月 いとうカーテン前
 Aの写真は、いとうカーテンさんが開店間近の自店を撮られたものです。
右から、ささやのよっちゃん、とっちゃん、私(小学2年生の私の初登場!)、太陽堂のじゅんちゃん。
4人は、8月初めに迫った「みなと祭り」を前に、大人達が笹飾りの準備をしているところを見ています。
手伝っていたのかもしれません。
学校も夏休みに入る頃で、ウキウキしていました。
この頃からと思います。
諏訪前通りで、笹飾りを始めたのは。
竹を編んで大きな球を作り、それにちり紙で作った花を付けていきます。
昼の間にちり紙と針金が配られました。
店番の間に花を作り、夜、店が閉まってから表へ持ち出し、遅くまで取り付けが行われました。
出来上がりが楽しみで、一生懸命作りました。
諏訪前の誇りにかけて。子供達は、よく、この作業を手伝いました。
諏訪前商店街では、ほとんど店の奥か2階が住まいになっていました。
夜、晩御飯が済むと、お風呂まですることもないので、進んで表へ出て手伝ったのです。

 お祭りの花飾りは、年々工夫されていきました。
球体に、羽とくちばしを付けて鳥の形にしたり。東京オリンピックの頃になると、鉄腕アトムが色々なオリンピック競技をしている形を作ったりしました。
 Bの写真は、飾りつけが済んだ通りの様子です。
飾りつけも終わり、通りはにぎやかです。
通行の人が、肩をよけてすれ違っていますね。
昭和31年当時の通行量の多さが良く出ています。
 手前左にはうどんの嶋口屋さんがあって、夏場には入り口でアイスキャンデーを作っていました。
キャンデーを作る「タンタンタン」という機械の音がしていたように記憶しています。
製造機には、いっぱい棒が差してあり、それを抜くと色とりどりのアイスキャンデーが現れました。
1本5円くらいだったでしょうか。
 写真CとDは、翌年32年10月の諏訪前です。
「四日市市政60周年」の提灯で飾られています。
その向こうに、みなと饅頭の看板が見えます。この店が開店した時は、饅頭製造機が珍しく、よく覗きに行ったものです。
熱した丸い円盤台に凹みがあり、皮の部分にあたる小麦粉を溶いたものが、上から自動的に流されます。
ゆっくり回転するうちに、餡がそこへ落とされ、また皮の部分が流されます。
こうして一回転し終わると、みなと饅頭の出来上がりです。

B 昭和31年 諏訪前


C 昭和32年10月 諏訪前
「今日は奮発して、みなと饅頭にしょうか。」
出来たてをおやつに買ってきました。
ホカホカのお饅頭は、熱く、甘く、2〜3個食べれば、私の空腹を満たすに充分でした(当たり前ですが)。
商品がそれだけということもあったのでしょうか。
味に飽きが来て、あまり買いに行かなくなりました。
1〜2年でその店は閉じられました。 諏訪前に、魚増という魚屋さんがありました。
その店は、兄弟でやってみえ、魚屋らしい活気に溢れていたものです。
朝早く、弁当のおかずに卵を2〜3個買いに行かされました。
当時、卵は高級品です。
なぜ魚屋に卵なのか良く分かりませんが、仕出しもやっていた関係なのでしょうか。
とにかく魚屋に卵を売っていました。

魚増さんへは、ネコのエサをもらいによく行きました。
家にネズミが多かったせいか、我が家では「チロ」というネコを飼っていました。
調理台の横に水槽があり、その下に缶が置いてあります。さばいた魚の頭と骨は、その缶に捨てられました。
私が、「猫の頭ちょうだい!」
と行くと、おじさんは笑いながら魚の頭を取り出し、新聞紙に包んで渡してくれました。
夏休みの終わり、私には標本を作る宿題が残されていました。
その年の夏、私を海へも連れて行けなかった母は、「南方で取れた」という奇妙な貝の盛り合わせを、魚増さんから買って来ました。

夜の食卓には、グチャグチャに煮込んだその貝が並んでいました。
前の店で貰ってきたカッターシャツの空き箱に、貝殻を並べて標本にしました。
貝の名前など分かるはずがありません。
まして図書館へ調べに行く時間もありません。氏名だけ書いて提出です。
2学期になって、
「珍しい貝を集めましたね。」
と、やさしい先生からお褒めの言葉をいただきました。
どうやって捕ったのかは、残念ながら聞かれませんでした。貝の味ですか?「珍しいだけで、美味しくない。」と、母親が言ったのを覚えています。

D 昭和32年 諏訪前

 戦後の復興が一段落して、豊かさに向かって歩み始めた時代。 貧しさの中から希望と夢に目を輝かせていた。そんな昭和30年代の諏訪前商店街でした。