温故知新
レモン色のまち

昭和30年代の諏訪神社

水谷武生

(写真提供:辻写真館)

昭和32〜3年頃。小学生2〜3年の私が浜田小学校から帰ると、母はいつも店か台所にいました。「10円ちょうだい。」
小遣いをねだると、写真屋の正ちゃんのところへゴー。
僕たちの遊び場は、諏訪神社であり諏訪公園でした。特に諏訪神社は、我ら新田町のテリトリーでありました。ある日、1号線から東の連中が諏訪神社へ遊びにきていました。これは穏やかならず。さっそく米屋の真也ちゃんに連絡です。真也ちゃんは当時このあたりの取り仕切り役であったようです。「何、そうか、ふむふむ。」
てなわけでさっそく戦争です。急いで手勢を集め作戦を練ります。敵は神社の池の奥に陣を張っています。遠くから望むと、なんと味方が木に縛り付けられて泣いているではありませんか。これには非暴力主義の私もぞっとしました。私と浅野の電気屋は、二人で相談しました。

昭和30年諏訪神社鳥居前 茅の輪くぐり
正面左は吉田酒店、右に紅屋呉服店


当時の敵の本陣跡
「神社の北の細い道(まさかここには敵はいないだろう)ロープを二人で持って道いっぱいに走れば、敵がかかるから捕まえようぜ。捕まえて木に縛り付けてやろう。」てなことで二人で出陣すると、なんと北の方からまさかの敵が数名かけて来るではありませんか。迷わず二人は回れ右して逃げました。恐ろしいことに石をほっつけてくるのです。捕まってあの木に縛られたらどうしよう。命がけで闇雲に逃げ回るうち、戦いは終結していました。(ああよかった)子供ですね。1号線をわたって帰る敵とバイバイをして分かれた記憶があります。
友情よ永遠なれ。当時の子供は、群れて遊びました。神社か公園に行くと、必ず友達がいたものです。神社の社務所の前で「かげふみ」をして遊びました。正ちゃんと自分が影を踏まれないようにうろうろしている間に、鬼になったカッちゃんが神社の石灯篭にあごをぶっつけてケガをしてしまいました。

わあわあ泣き出すありさま。さあ大変です。あそこのお父さんこわいんやで。店へつれて帰しましたが私の心配は収まりません。日ごろ見向きもしない家の仏壇と、ついでに神棚にもお参りしました。
「どうかカッちゃんのお父さんがうちへ怒鳴り込んできませんように。もし来なかったら、ちゃんと母ちゃんのいうことを聞いて、勉強しますし、もう店の手提げ金庫から10円くすねたりしません。ナンマイダブツ。」
ラジオから「私だけが知っている」の番組が聞こえてきます。ラーメン屋の寂しいチャルメラの音が聞こえてこないうちに、早く寝なくては。
「あ、そうそう、もうひとつ、今夜こそ寝小便しませんように。」

新田町の縄張りだった諏訪神社