温故知新
レモン色のまち

四日市幼稚園

水谷武生

(写真提供:辻写真館)

現在の諏訪公園パズルパーキングが、当時の四日市幼稚園のあったところでした。
昭和29年10月15日、稲葉町大協石油の大火は、四日市市民を震撼させました。幼稚園の門から東を見て、モクモクとあがる真っ黒な煙を呆然と見ていた記憶があります。
「このままでは日本の半分が飛んでしまう。」
そんな怖い話を聞きました。何日も何日にもわたって燃え続けたタンク火災でしたが、最後はアメリカの特殊薬品で消し止め火事は収まりました。「さすがはアメリカさんだ」と感心したものです。 
昭和20年戦災のあと、従来の演武場を借りて四日市幼稚園が再開されたと、四日市幼稚園創立90周年史に記載されています。(図の@〜Bの部分)ということは空襲で焼け残ったということでしょうか。そして、昭和24年に保育室Cと管理室が増築され、続いて27年2階建て保育室Eが新しく建て増しされました。戦後のベビーブームに対応するため、次々と園舎を増やしていった状況がうかがえます。昭和28年の児童数は、415名にのぼりました。
 小さい建物と物置が保育室の向こうにあって、こずかいさんがいました。こずかいさんは怖いおじさんで、泣き叫ぶ園児を物置に押し込めていたのを僕たちは、恐る恐る保育室の縁からのぞいていた記憶があります。 けれど、ぼくたち「ほし組」の部屋は、まるで親鳥に守られた暖かな巣の中のようでした。 

やさしい先生。キンダ−ブックを読んで聞かせてくれました。水色のバスケットに入ったお弁当、お弁当を温める木の箱。お昼前になるとみんなのご飯やおかずの匂いが、めちゃくちゃミックスされ、忘れがたい臭気を放っていました。 「ピーターと狼」という曲を聞いた記憶があり、今でも口ずさむことが出来ます。それぞれの登場人物が音楽で表現され、確か、悪い狼を狩人がやっつけるストーリーだったと思います。そのときはぐくまれた音感は、現在カラオケで演歌を歌えるまでに成長しました。
演芸会があって、私は浦島太郎に選ばれました。ところが腰に巻く蓑がいやでいやで、
「先生、坐って玉手箱をあけれやへん。」
と、先生方を困らせたものでした。結局根負けして、私は腰蓑をつけました。これをつけないと浦島さんになれなかったそうです。
 忘れもしません。昭和30年3月卒園式の日。近藤三重子先生は、ピアノを弾きながらあふれる涙を白いハンカチでぬぐいました。
「何で、泣いとんのやろ。」
そんなことしか考えられなかった僕たちでしたが、今、先生が当時のままであれば、是非もう一度お会いしたい。そう思う今日この頃でございます。(無理な話か) つづく


公園から北を望むと・・・

・・・右にこどもの家