温故知新

四日市スワ百貨店オープン                             水谷武生
(写真提供・辻写真館)

 昭和37年9月2日。諏訪栄の真ん中に四日市スワ百貨店がようやくオープンしました。
 入り口に花輪が並んでいます。衆議院議員山手満男。キングレコード春日八郎。東海ラジオなどからの花輪が並び開店の華やかさが伝わってきます。
 一番街のアーケードはまだ見受けられませんが、昭和39年の6月にはアーケードの竣工式が行なわれて諏訪栄地区がアーケードの下で回遊できるようになります。竣工式の写真がありましたので下段に揚げておきますネ。
 この日は大勢の人が詰め掛けました。左の写真は辻さんがビルの屋上から撮ったもの。右は店内、入り口付近の様子です。何かの引換券でも渡しているのでしょう、一箇所に詰め掛けている様子です。
 私も出かけました、エスカレーターに乗りたくて。でも、名古屋のエスカレーターに比べると狭い印象でございました。
 店内も意外と狭く、何より私の好きなおもちゃ売り場が少なかったため、その後、あまり出かけなかったと記憶いたしております。
 

 スワ百貨店東側を北向きに見た写真です。
渡辺のジュースの素の看板をつけた車が止まっています。搬入の車でしょうか。荷台には桃の箱が積まれています。
「ホホイノホイともう一杯、渡辺のジュースの素ですもう一杯」
 左の大阪屋の前には多くの人が通ります。
 正面向こうの諏訪南大通りにあったはずのアーケードは、台風で壊れ撤去されています。
 諏訪劇場へ抜ける狭い路地が広くなりました。
 昭和39年9月15日夕刻。スワ百貨店屋上のビアガーデンから南東歩方角を見た写真です。やや左に四日市商工会議所上の東芝のネオンが輝いております。
このネオンは我が家の屋上からもみえました。懐かしい写真です。
暗くなりかけた空には雲が重くたれこめ、煙突から出る煙は繁栄と平行して大気汚染が進んでいるようです。
 この年の10月10日、東京オリンピックが開かれ、新幹線ひかりは東京大阪間を4時間で走りました。


 右の写真は昭和40年7月13日、一番街の通りを西向きに見たところです。スワ百貨店が左にあります。現在はパチンコホームラン。キタオカの向こうに諏訪寿司・水谷食堂と並んでいました。アーケードが完成しています。
 この頃はスワ百貨店のほかに駅前にオカダヤと近鉄百貨店があり、諏訪栄は最高の活況を呈しておりました。
 昭和36年ごろには駅の北側に近鉄百貨店が出来ていたはずです。
その東(今のスターアイランド)には映画館の四日市シネマとグランドがありました。
シネマは洋画、グランドは大映と松竹映画をやっていました。
「ベンハー」「釈迦」「史上最大の作戦」「大脱走」などの大作や「輪舞」「女体蟻地獄」などのエッチなやつ、「世界は恐怖する」なんて原爆の後遺症を描いた見世物みたいなのを覚えています。題名は忘れましたが、肩に出来たおできに目玉が付いていてやがて膨れ上がり、最後には二つの体に分離するというめちゃくちゃ恐ろしいのもありました。この映画は確か、おもちゃのささやさんが、1日グランド劇場を借り切って無料開放したときと思います。映画のお話をすると切りがありません。
 その後、スワ百貨店はアピカとなり、現在はパチンコホームランになりました。
 左の写真が現在の一番街です。今は駅西の松坂屋が撤退し、ジャスコ(オカダヤ)跡が空き地となり、まちにとっては散々な時代を迎えております。
 しかし、年末にはサンシが改装オープンして松坂屋跡にはユニーとシネコンが出来る予定になっており、明るい材料が揃いだした感がございます。2005年が明ける頃には、きっと賑やかさを取り戻していることと確信いたしております。

オマケ
 昭和39年6月、一番街アーケードの竣工式の様子です。スワ百貨店東から北向きに見たところ。早朝で店はまだ閉まっています。右が関西電波。正面が公園通りになります。
 右の白いカッターシャツ姿の方が男子専科ヤマモトの故山本七郎氏です。とても尊敬できる方で、精力的に四日市の街を引っ張っていった方です。
 哀悼の意を 南無阿弥陀仏
時間の経過に間違いがあるとおもいます。是非ご指摘ください。