温故知新

考察:四日市諏訪駅跡地 2 水谷武生
写真 辻 俊文(辻写真館)

 2003年11月15・16日、表参道スワマエ・スワ栄商店街を中心に四日市近鉄駅前活性化サポータークラブが「昭和レトロ物語」のイベントを行ない、大勢の来街者で賑わいました。
 そこで46点にわたる当時の写真を展示し、昔を懐かしむ方に楽しんでいただきました。
 その中から何点かを掲載します。辻さんと共に昭和30年代の街を歩いてみましょうか。
 これは駅前にあった諏訪百貨店の正面。

 昭和32年2月、現在の大阪屋前。上の諏訪百貨店から左、東側を撮った写真。線路跡に三泗百貨店の改装売り出しの看板が立っている。
 この向こう側に諏訪劇場と弥生館の看板が見える。ここをくぐって東へ進む狭い路地に線路を背にして小さな店が並んでいた。ぜんざいのうまいや、きしめんののんきや、洋食のふじや、そして一茶。階下で商売をして2階に住まいをしていた。画面左、店の裏で親子が朝の洗顔に余念がない。2階には洗濯物が干してある。
 寒い朝、その横を通勤の人々が通る。

 上の写真を諏訪駅跡地から東向きに撮った写真。三泗百貨店の一掃謝恩セールの看板の向こうに顔を洗う親子が見える。
 この道がまっすぐ国鉄(JR)四日市駅へ通っていた。線路跡は舗装整備されて、現在の一番街通りが出来てゆく。
 三泗百貨店は多くの店の集合体だった。2階には切手売り場やゲームセンターがあった。見返り美人や月に雁の切手を持っていると羨ましがられたものだ。この後三泗百貨店はスーパーサンシとなる。

 昭和34年5月21日。2年ほどの歳月を経る。ぬかるみの空き地から、少しづつ整地が進んでいる様子が分かる。上の写真の親子が住んでいた店の並びは撤去されたのだろう。
 白揚の看板(文芸春秋)が見えるから、左が大阪屋にあたり、右方向が諏訪百貨店だ。この路地を抜けると諏訪劇場(四日市東映)に出た。
 まさに路地。現在と比べると想像もつかない。毎週土曜日の夜になると、この路地を通って、父親とよく映画を見に出かけたものだ。
 右に服部紙店、今村洋装店、万惣と並ぶ。
 入り口角が高木菓子店とその隣のマルモ物産。 この地域の解体工事はまだ1年半先の話だ。

 同じ日、上の位置から東を望む。
 現在の一番街通りが出来上がりつつある。前の空き地は近鉄線の資材置き場になっていた。左が新徳化粧品店と、富士ヨット学生服の看板のある草野洋服店。草野洋服店は通り沿いに出てきたことになる。
 ここの線路沿いに時々パッカン屋が店を出していて、何も知らない私は大きな音に縮み上がった。気がつくと周りには誰も居なかった。出来上がったパッカンは缶の中で水飴とこねられて売られた。その後、草野洋服店の前を通るときはパッカン屋が店を出していないか確かめてから通った。
 シーダー理容店の看板を左へ入ると諏訪中通り(現在のすずらん通り)へ出る。
 昨日から降り続いていた雨がようやく上がった。

 昭和35年12月20日、32年に諏訪駅が現在の四日市近鉄駅に移って3年、ようやく諏訪駅前にあった諏訪百貨店が建て替え工事にかかる。
 こうして昭和37年9月2日、街の新しい顔になる四日市スワ百貨店がここに誕生することになるのだ。