温故知新
諏訪劇場界隈 水谷武生
写真提供 辻 俊文氏(辻写真館)

 
四日市諏訪駅を降りて、映画の看板を南へ曲がり、白揚書房の路地を抜けると右角に諏訪劇場があった。
 前に掲載させていただいた諏訪劇場角の写真だ。
 片岡知恵蔵の大菩薩峠が再映されている。東映スコープ、総天然色。机龍之介が巡礼の子供づれを切り殺すところから始まる。暗く重い印象があった。
 昭和32年7月26日、映画館前はいたってのんびりしている。立小便をする子供、待ち合わせの学生。映画館南に自転車置き場が見える。映画の黄金時代。毎週足繁く通った。
 ジャスコB館がなくなった現在は寂しいかぎりだ。

 同じ日、白揚の路地を出たところ。右に諏訪劇場が建つ。辻写真館から東を見る。
 百円だけで遊べたマージャンの店、グランドホール。その並びが万惣。正面が精養軒。人通りは多い。万惣はカレーから寿司まで何でもありの食堂だ。映画の帰りのちょっと立ち寄るには、手ごろな店だったのだろう。万惣の息子か、学生達の立ち話。
 暑かった一日、夕立はあがった。

 

昭和32年4月27日、近鉄四日市駅が開業した頃、なんと美空ひばりが諏訪劇場へ来ていた。今夜は特別な夜だ。こわもてのお兄さんがこちらを見ている。ひばり見たさにたくさんの人が押しかけた。大盛況と裏腹に、あたりに緊張が走る。この年の1月13日、ひばりは東京の国際劇場で塩酸をかけられる事件に遭遇したばかりだ。この日の夜、美空ひばりの歌を聞きに駆けつける女性。まもなく開演だ。これから始まるショーに期待で胸は膨らむ。
 この頃、映画館主は、地方の興業師的色合いが濃く、巡業の歌手などに舞台を貸していた。市民ホールが市役所の北に出来るまでは、映画の合間に舞台公演がここで行なわれた。
昭和32年9月27日、四日市まつりの最後の日だ。比丘尼町の大名行列が諏訪劇場横の通りを西へ進む。右に諏訪劇場、左がスワホール、辻写真館の前から撮る。時間は夕刻に向かう頃だから、諏訪神社への練りこみの後か。
ひぃーさぁーひぃー

少し戻る、昭和31年8月31日。諏訪劇場前から南を撮った写真。
 蛇を首に掛けたおじさんが立っている。最終的に何を売るのか。わけの分からない塗り薬か、万年筆か。まつりの時には公園や神社で必ずこんな香具師を見かけた。あっという間に人だかりが出来た。蛇に自分の腕を噛ませたり、針を腕に刺したりするのを長い間しゃがんでみていた。口上が盛り上がったところで鞄の中から商品を出して売りつけた。
 中央通りの向こうに農協の建物が見える。
 暑さの中、近鉄四日市駅の建設が、急ピッチで進んでいる頃だ。

昭和34年12月30日。明日は大晦日。諏訪劇場前の諏訪花園は買出しの人でいっぱいだ。
 この年の9月、伊勢湾台風が東海地方を襲った。そんないやな思いを払拭するかのように人々は買い物に走る。
 左、東方向に小鳩洋装店、三重興農社、早川荒物店と諏訪中央商店街(現在のグリーンモール)が続く。
 明日の紅白歌合戦の司会は高橋圭三と中村メイ子。この年は「御存知弁天小僧」を歌った美空ひばりの紅組が勝った。
 この日、我が家では全員で夜明け前から餅をついた。