温故知新
レモン色のまち

はじめの近鉄四日市駅

水谷武生

(写真提供:辻写真館)

昭和23年、私は新田町1489地に生まれました。現在の諏訪栄町。四日市の町の真ん中で、私は育ちました。私は、これから思いつくまま話していこうと思います。昭和30年代前後の、この町のことを・・・。戦後復興の色が強かった頃から、今の町並みが形成されてきた時までの、私の幼稚園から小学校時代までの頃のことを・・・。皆さんも、どうか私の勝手な思い出話に参加して欲しいのです。言い足りない事や間違いがあったら、教えてください。思い出は楽しく、時にレモンキャンデイのように甘くすっぱい。そんな至福の時を皆さんと共有できれば幸せです。
なんて偉そうに書きましたが、戦前版は、岡野繁松先生が「旧四日市を語る会」でやってるんですよね。ですから、私たち団塊の世代で、戦後版をやりたいなあと思っていたんです。
私は数年前、街の皆さんに尋ねながら、昭和32年頃の商店の地図を作りました。この地図から、当時の思い出話に発展させていこうと考えていたのですが、不発に終わってしまいました。
その夢を、これからこのページに咲かせたいと思っています。私たちの成長と同じく、この街も勢いよく発展していく・・・。そんな時代でした。
昭和32年4月。今の1番街中央あたりにあった「諏訪駅」が、現在の近鉄四日市駅に移転しました。 草だらけの空き地の真ん中に駅が出現したのです。駅から東へ、国道 1号線まで延びる広い空き地で、戦後まもなく産業博覧会があったと聞きました。残念ながら、私には、記憶が全くありません。(誰か教えて!)跡地の草原へ、殿様バッタを取りに行ったことを記憶しています。


2001年2月 近鉄四日市駅周辺

1957年4月 近鉄四日市駅開業

70メーター道路は、冬になると鈴鹿おろしが吹く荒涼としたところでした。新しい駅は、屋上に電光掲示板を持つ、鉄筋コンクリート 2階建ての殿堂です。
1階南から駅事務所、切符売り場、改札口。そして、北側半分が、東海ストアの食品売り場。中央には、四日市初お目見えのエスカレーターがありました。
「僕チャンは、エスカレーターにうまく乗れるのだ。」と自慢したものです。
2階へ上がると、おもちゃ売り場なんかがありました。それから南側奥には広い食堂。
「今日は、東海ストアへ食事しにいこう。」と、よく出かけたものです。私は、そこでお子様ランチをいただきました。人、ひと、ヒト・・・。開店当時は、大変な人でした。街の中心が、諏訪新道から今の 1番街へ移ったのです。ジャスコ(当時オカダヤ)も、駅前へ移りました。

駅がまだ工事中だった頃、北側に、四日市初の地下道が完成した事を聞きました。駅前と西側を結ぶ、数十メーター程の地下道です。私は、店向かいの幼いあきらちゃんを、三輪車に乗せて見学に出かけました。
ようやく着いた地下道は、暗く、涼しく、大きな声を出すと反響しました。道の西に出ると小さな川があって、産業廃棄物のいやな匂いがしました。
未知の西側は、工業高校と天理教の建物以外は田んぼばかりの平野でした。そして、遠く鈴鹿の山が連なっていました。到着時にお昼のサイレンを聞いたので、私は、「あきらちゃんを早く家へ帰さなければ。」と帰り道を急ぎました。近道に、今のジャスコA館東側に線路がありました。その上を、人がたくさん歩いていました。諏訪駅から伸びた八王子線の跡だったのでしょう。

1958年7月 現中央通りグリーンベルト

その線路の上を、通りがかりのおじさんに助けてもらいながら、悲痛な思いで帰ってきた記憶があります。
「東海ストアの屋上は、どないなっとるんやろうか。」
南側の階段から、私は、友達と探検に出かけました。屋上は、殺風景で電球がいっぱい並んだ、大きな電光掲示板が立っているだけでした。私たちの失望に追い討ちを掛けるように、おじさんが遠くで「こらこら、こんなとこへ上がって来たらあかん!」と叱られ、慌てて降りた記憶があります。
私の探険談は、いつもつらく、うら悲しい思い出で彩られておりましたです。ハイ!